時代は癒しを求めている

癒しを求めてフランスへ

わざわざ癒しを求めてフランス??はぁ???って思ってしまうかもしれませんが、”癒されたい””私は今、癒しを必要としている”と思っていればこそ、癒しを求めて野を越え山を越えのように「癒し」を求めてアロマをしたりカウンセリングなどを通して、本当の自分を知ることを求める。「エルメスのバーキンを買って癒された~!」とか「ダイヤのリングを買って癒された」なんていいませんよね。「チョコレート食べて癒された」はありで「大自然の中に身体を置いて、かなり癒された」はありますけど。「パワースポット巡り」もいわば「自分の身体にエネルギーチャージ」を求めていくものです。それは「癒し」なんですね。

パワースポットでもあり奇跡の場とも言われる場所があるので、そこにどんな「癒し」があるのでしょうか~?!

パワースポットの聖地?!ルルド

場所はフランス、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもとにあります。フランスは南西部のオート=ピレネー県、人口は15000人ぐらいの小さな町です。カトリック教会の巡礼地でもあり、聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られているのが、パワースポットのあるルルド:Lourdesです。そして奇跡の場所ともいわれて、カトリック教会の総本山ヴァチカンが認め、ヨハネ・パウロ2世もルルドを小さなルルドの町を訪れたのには、ある一人の少女の存在がありました。

ベルナデッタ・スビルー
1844年1月7日に生まれたベルナデッタ・スビルー(Bernadette Soubirous)の写真を見ることが出来ます。彼女は、写真撮影されたカトリック教会で最初の聖人だからです。奇跡の場所といわれ、パワースポットそしてカトリック巡礼の地とされる「ルルドの泉」を発見したのは、ベルナデッタ・スビルーです。彼女がいかにして「ルルドの泉」を発見して、ヴァチカンから聖人とされるようになったのでしょうか?!

ベルナデッタの生い立ち

ベルナデットが誕生する前、ベルナデットの母方のカステロー家はとても複雑な事情を抱えていました。1841年7月1日に、ボリーの水車小屋の粉を挽いていたジュスタン・カステローが、馬車の事故で亡くなってしまいまhした。ジュスタン・カステローの妻は、夫を亡くしてしまったので未亡人となります。未亡人になったクレール・カステロー夫人には、4人の女の子と2人の男の子2人がいたので、途方に暮れることになりました。その当時のピレネー地方では、長子が優先されるという慣習があったため、男であっても女であっても、長子が財産や土地を相続するというのが一般的でした。

水車小屋は止まってしまい、なんとか一家を再興するために、長子の女の子を同じ同業者と結婚させなくてはなりませんでした。そこでカステロー未亡人は、近くの水車小屋で働いていた34歳のフランソワ・スビルーに話を持ちかけます。

婚姻話が持ち込まれたフランソワ・スビルーは、この話に乗り気になり、喜んでボリーの水車小屋にやって来て仕事を手伝いました。ところがフランソワの方は一向に結婚話を進めてくれません。そのためフランソワに問いただしてみると、フランソワが気に入っているのは、長女のほうではなく次女のルイーズを気に入っていることが分かりました。カストロー夫人は、長女ではなく次女を先に結婚させることにして、水車小屋の人々には次女のルイーズの方が家事ができるという口実を話をして、フランソワ・スビルーとルイーズの結婚を納得させました。ふたりの結婚式は、1843年1月9日で、翌年の1844年1月7日に、長女のベルナデットが生まれました。もちろんピレネー地方の慣習通りに性別を問わない長子が相続する伝統から、ベルナデットは後にルルドを離れることになりましたが、家族の行く末をいつも気にかけていました。


スビルー家の不幸と苦難

ベルナデットが生まれて1年も経たないうちに、スビルー家に不幸が訪れることになりまう。最初の苦難は1844年11月のことでした。暖炉のそばに座っていた母親の服に、壁に掛けてあったランプが落ちてきてしまい洋服に火が燃え移ってしまい母親のルイーズは胸にひどい火傷を負ってしまいました。まだベルナデットは生まれて1年も断たない赤ちゃんですが、母親が胸に火傷をおってしまったので、乳を飲ませることが出来なくなってしまいました。そのため、里子に出さざるを得ない状況になってしまいました。このときには、生まれたばかりの男子を亡くしたマリー・ラギューが、乳母の役割を引き受けてくれることになり、乳離れをするまで預かってくれることいなりました。

続いて二つ目の不幸が、スビルー家を襲います。それは水車小屋で金槌の修理をしていた父親が、あろうことか石の破片で右目を傷つけてしまったのです。仕事がうまくいかなくなっても、人の良いスビルー家の人々は、施しを求める者がいれば、施しを拒否することはありませんでした。そしてスビルー家に施しを求めに来た人々のなかに、後に列聖される托鉢僧のミッシェル・ガリコイツもいました。

そしてまだまだスビルー家には、不幸が続きます。1855年にルルド地方を襲ったコレラです。ベルナデッドは元々病弱なうえ、コレラになり一命は取り留めることができましたが、コレラになってからというもの、喘息の発作に苦しむことになりました。そして母方の祖母が亡くなったため、祖母が残した遺産900フランで、新しい水車小屋を借用しました。ところが、父親のフランソワは字が読めません。そのため水車小屋の借用書の契約書の内容がよく理解できなかったために、たったの一年間しかその仕事につくことができませんでした。

スビルー家の経済状態は悪化の一途をたどるばかりです。そして小麦の不作もあって、フランソワは遂に失業してしまいます。そしてスビルー家は「カショー」と呼ばれた牢獄跡の建物で住むことを余儀なくされることになりました。1858年3月1日に書かれたデュトゥール検事の記録によると、スビルー家が住んでいたカショーは、「とても汚く、そして暗く、人間の住めるところではない」状態の廃屋でしたが、同じカショーの2階に住んでいた従兄弟のアンドレ・サショーによると、スビルー家は貧しい生活だったけど、「毎晩大きな声で、フランス語で夕の祈りを唱えていた」といいます。ベルナデットは標準のフランス語を理解することはできませでしたが、何ものかを感じるものがありました。

スビルー家は経済的にも困窮していしまい、ベルナデットはバルトレス村の養母の元に里子に出されることになり、羊飼いをして生計を立てることになりました。ベルナデットは毎週日曜日に公教要理(カテキズム)の勉強をさせてくれるという約束でしたが、その約束はいつも守れるということもなかったために、ベルナデットは、初聖体を受ける頃になっても読み書きができませんでしえた。いくつかの祈祷文は覚えることはできましたが、、三位一体の教義すらも知らずに育っていきました。

三位一体はカトリック教会の教義の根幹をなすもので、その教義すらも知らずに読み書きもできずに育ったベルナデットはどのようにして「奇跡」をめにすることになったのでしょう。