時代は癒しを求めている

ルルドで起きた最初の奇跡

2月15日にベルナデットは聖母からの指示で「ルルドの泉」を掘ることになりました。最初は泥水だった水も、みるみるうちにキレイな透き通った泉になりました。それが「奇跡の水」と呼ばれる「ルルドの泉」です。この泉の水を求めて、この水の「癒し」を得るためにフランスルルドを訪れる人が世界中からたくさん訪れる聖地となりますが、それには数々の「ルルドの泉」の奇跡があったからです。最初現れたとき「若い貴婦人」としか思わなかったベルナデッタは、「若い貴婦人」のことを「アケロ」と呼びました。「アケロ」という意味は「あれ」でまさか聖母だとは思わなかったからです。

癒しの泉『ルルドの泉』

一番最初の奇跡は3月1日のことです。2月15日に『ルルドの泉』が現れてから、まだ半月ほどのことです。ルルドから7キロほど離れたルバジャックの村に、カトリーヌ・ラタピという女性が住んでいました。

彼女は妊娠9カ月の身重でした。彼女は彼女自身も理解できない心のうながしがあり、その心の促しに従って、2人の子供の手を引いてルルドにやって来ました。以前カトリーヌは、木から落ちて腕を脱臼していたため、長い間医者にかかっていましたが、治っていなかったため、右手の指が曲がったまま右手の指は動かずに感覚もありませんでした。

ところが、ルルドの泉の水に右手を浸すと、身体全体に快い感覚が広がります。そして手が柔らかくなったように思えました。すると同時に曲がっていた指は、突然に以前のように動くようになりました。そしてカトリーヌが感謝の祈りを唱えると陣痛が始まったため、自分のルバジャック村に戻ったときにお産を手伝う人もいませんでしたが、陣痛の痛みもなく無事に男の子が生まれました。生まれた男の子は、この奇縁にちなみ「洗礼者ヨハネ」という意味の「ジャン=バティスト」と名付けられて、この男の子は後に司祭になりました。


13回目の出現

この最初の奇跡の翌日、3月2日に13回目となる出現があります。洞窟の前にやってくる人は、1,650人にも膨れあがってきました。ベルナデットは、出現する「若い貴婦人」からのメッセージを受け取ります。それは聖堂を建てること、そして行列をして欲しいということです。この女性からのメッセージを、ルルド教区の司祭のペラマール神父に伝えました。ところが、ベラマール神父はどこの誰だかもわからない者の命令を聞くわけには行かないとしてとりあいません。そしてベルナデットが「アケロ」(あれ)と呼ぶひとの「若い貴婦人」の名前を尋ねてくるようにと命じました。

赤ちゃんが蘇生する

そして最初の奇跡が起きた翌日に再び奇跡が起こります。それは赤ちゃんへの奇跡でした。

貧しい職工のジャン・ブオールに、ひとり息子のジュスタンがいました。ジュスタンは、骨軟化症のため生後2カ月経っても、ゆりかごのなかで座ることもできませんでした。そして3月2日の午後に、発熱性の消耗性疾患で食欲が減退してしまい、もう何も受け付けなくなってしまいました。

赤ちゃんの衰弱は著しくなり、かかりつけ医師のペリュ博士も、この赤子にはもはや打つ手がない。とジュスタンには刻々と死が近づいていました。ジュスタンの母親は、もはや手の施しようのない赤ちゃんの姿を見て悲嘆にくれていますが、父親のジャンは「不自由な身体で、一生を過ごすよりは、この方が本人にとって幸せだから」と母親クロワジーヌを慰めていました。

でも、赤ちゃんがこのままなす術もなく死んでいくということを、諦めきれないクロワジーヌは「この子はまだこと切れていない」とつぶやき、赤子を前掛けに包んで、マサビエルの洞窟を目指しました。そして「そんなことをしたら、子供を殺してしまうぞ!」という、周囲の人々の制止も一切聞くことはなく、赤ちゃんを裸のままに冷たい水につけました。そして15分間も冷たい水の中につけたかと思うと、また大急ぎで自宅に戻り赤ちゃんを寝かしつけました。

そしてこのときの一部始終を、聖母の出現のときにベルナデットに立ち会ったドズー博士が見ていました。赤子の様子はどうだったかというと、一言もオギャーと泣くこともなく、誰の目からみても絶命したと思われました。そして赤ちゃんの昏睡状態は翌朝まで続きましたが、朝になると赤子は突如に目を覚まして、さかんに乳を求めました。そして、3月4日には起き上がって室内を走り回るようになるまでに回復しました。

ドズー博士は同僚のヴェルジェス博士にこのことについての意見を求めますが、ドズー博士もヴェルジェス博士も突然の回復して治ったことの原因がわかりません。そしてジュスタンを診ていたペリュ医師も同じくその原因が。11年後には、もはや病弱だった姿がウソのように、元気すぎて遊ぶことに夢中で勉強しなくて困るとクロワジーヌ母親がこぼすほど、元気な姿のジュスタン少年に成長していました。


無原罪の御宿り

3月25日のことです。カトリック教会暦では、受胎告知の祝日に当たるこの日に「アケロ」とよぶ「あれ」の存在がはっきりとしました。ベルナデットはベラマール神父に言われたように、人影に名前を聞きます。すると人影は【 Que Soy Era Immaculada Councepciou 】 と答えました。この言葉はルルド地方のビゴール方言で【 私は無原罪の御宿りです 】という意味になります。

カトリック教会で【無原罪の御宿り】としての教義は、洞窟に出現する前の4年前の1854年に、正式に信仰箇条としてローマ教皇ピオ9世によって宣言されていました。その当時の教会用語はラテン語だったので、正規の学校教育を受けたことがまったくなく、そして標準フランス語さえも知らなかったベルナデットがカトリック教会の教義の内容を知ることなどありませんでした。

ベルナデットはもちろん【 Que Soy Era Immaculada Councepciou 】と言われても、その意味が分からなかったので「あれ」が話をした【 Que Soy Era Immaculada Councepciou 】つまり【ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ】という言葉を忘れないように、帰り道は何度も何度もくりかえして、「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ」とペラマール神父に伝えました。もちろんベラマール神父はその意味を知っています。その言葉をベルナデットから聞いて、最初は半信半疑だった司祭も驚き、まちがいなくこれは聖母マリアの出現に間違いないと確信しました。

マサビエルの洞窟への最初の行列は、カトリック教会からの公式に聖母の出現が公認される以前に行われました。それはベルナデットが聖母から取り次いだ、洞窟まで「行列をしなさい」という指示に従って『幼きマリア会』の少女たちの自発的意志から始まりました。5月7日に、「マリア月」の祈祷のためにルルドの教会に集まっていた少女たちは、教会から出ると、手に手にろうそくを持って、聖歌を歌いながら洞窟を目指して、ひざまづいて祈ります。そして市街地の入り口までみなが離れることなく、同じ行列を繰り返しました。