時代は癒しを求めている

巡礼の場所となったルルド

「ルルドの泉」で最初の奇跡が起きたのは3月1日のことです。そして続いて3月2日も赤ちゃんの蘇生という奇跡がおこりました。続いて3月3日にも奇跡が起こります。それは失明が治るというこれもまさに奇跡としかいいようのない出来事でした。ルルドに住んでいる石工のルイ・ブリエットは、職場で起きた事故のため右目に外傷を受けて失明しました。右目が不自由ということで仕事がうまくいかずに困っていました。

3月3日に、ブリエットは祈りの言葉を唱えながら、洞窟のわきでる水で目を洗うと、驚くことに突然に右目が見えるようになりました。

ブリエットの失明を以前確認していたドズー医師は、喜び勇んでやって来たブリエットを落ち着かせます。そして興奮して見えるようになったことを伝えるブリエットの言葉を、なかなか信じられないドズー医師は、本当に右目が見えるかどうかを確認するために「左目に眼帯をして、20歩離れてもらい、手であらゆる動作をしてみました」左目に眼帯をしても、そして離れていてもドズー医師のアクションを、ブリエットはすべてを完璧に見分けることができました。そして次にブリュエットに近づいて、自分の手帳にあれこれ線を書いてみせましたが、ブリエットはこれも難なく識別しました。

巡礼地となったルルド

7月16日には既に聖母の出現が終わっていましたが、ルルドの噂を聞きつけて多くの巡礼者で賑わうようになりました。出現した洞窟には、あまりにも多くの人々が集まったために、警察では洞窟の前に鉄柵を設けて、洞窟に接近すること、そして泉の水を汲むことも禁じてしまいました。ところが、その当時の著名な作家やジャーナリストがルルドを訪れるようになると、今までルルド近郊あたりでしか知られていなかったベルナデットと洞窟の話は、一気に広まりフランス全土でも知られるようになりました。7月28日に、ナポレオン3世の皇太子の教育係を務めるブリュア海軍大将の未亡人は、病気がちな皇太子のために噂を聞きつけたルルド泉の水を求めて密かにルルドを訪れます。そしてルルドの話を部下から聞いた皇帝は、洞窟の前に設けられえた鉄柵を撤去するようにと命じることになりました。

マリア像が造られる

1864年にマリア像が洞窟のくぼみに設置されることになりました。マリア像を作成したのは、リヨン美術アカデミー会員の彫刻家、ジョセフ・ファビッシュです。そして製作されたマリア像は、聖母が出現した洞窟のくぼみに設置されました。その当時にパリで人気を博していた挿絵入り新聞『イリュストラシオン』紙などで、ベルナデットそしてルルドの出来事が採り上げられるようになると、ひとめベルナデットを見ようと人々は競いあってベルナデットに面会を求めるようになりました。

挙句の果てには、ベルナデットと結婚したいという人まで現れました。ベルナデットと結婚したいと言い出したのは、ナントの医科大学のインターンをしているラウル・ド・トリックビル青年で、ローランス司教に手紙を書いてゲルナデットへの求婚の許可を求めましたが、司教は「願いがまったく不謹慎なもので、聖母マリアのお望みに反する」と拒絶しています。ベルナデットが聖母マリアを見たから少しでもあやかりたい。とスビルー家に押しかけた人々は、ベルナデットにロザリオを触ってもらいたいと願ったり、彼女の服の一部をもらいたい。と求めましたがもちろんベルナデットはその要求に応じることはなく、「まるで太った牛のように人目にさらされている」ことに困惑をしめしていました。


ベルナデットは愛徳修道会へ

日本が幕末期のことです。パリ外国宣教会のテオドール=オギュスタン・フォルカード神父は、沖縄に滞在して日本へキリスト教を布教するために準備をしていましたが、フランスへの帰国を命じられてヌヴェール教区の司教に叙階されました。フォルカード神父は、ルルドの片田舎で平穏に暮らしていたベルナデットが、ルルドで聖母を見たこと、そして「ルルドの泉」の奇跡などで、すっかりフランス全土で有名になってしまい、毎日訪問者からの好奇の目に悩まされていたベルナデットを修道院に匿うために尽力します。

ベルナデットは、パリからルルドへベルナデットに会って聖母マリアを見た話を聞きたがるいわゆる名士たちとの面会も、つねに困惑の種になっていました。彼女が困惑していたのは言葉です。ベルナデットは、ルルドという土地に生まれ育ち、山あいでつかう方言しか使ったことがなかく、読み書きの教育を受けたわけでもないため、フランス語というのはベルナデットからすると外国語と同じだったからです。そして修道会へ入れようとするフォルカード神父に対して「わたしは貧しくて、必要な持参金を持っていません」いいました。お金のことを心配するベルナデットに対して、持参金なしでも入会した例をフォルカード神父が話をすると「持参金なしでも入会できたお嬢さんたちは、手先が器用だったり、頭が良かったりするのでしょう。わたしは何もできませんし、何のとりえもないんです」と答えました。フォルカード神父は彼女に「今朝この目で見たけど、にんじんの皮むきができるじゃないか。」とベルナデットを説得して、1866年7月7日にブルゴーニュ地方にあるヌヴェール愛徳修道会への入会を斡旋しました。

ベルナデットが入会した修道会は、17世紀に創設された愛徳修道会ですが、この修道会の特徴は「不幸な人々以外のことに、決して関心をもってはいけません。その人々を心から助けること以外の心づかいや心配を、決してもってはなりません」というドゥラヴェンヌ師の言葉が会則となっています。この修道会では、貧しい家庭の女の子に初等教育を施すこと、そして誰からも望まれない老人を迎えることに対して、特に注意を払っていました。そして愛徳修道会は、ルルドに養護施設と学校を持っていたことから、ベルナデットはルルドの愛徳修道会で学んでいたので、愛徳修道会のシスターたちは彼女にとってとても身近な存在でした。ベルナデットが修道会へ入るために持参した財産は、一本の日傘と手提げかばんのみが彼女が持っている財産でした。

ブルゴーニュ地方のヌヴェールで、ベルナデットは修道女となる誓願をたてます。「スール・マリー・ベルナール」という名前で修道女となり、さまざまな雑用や看護婦として仕事に従事して1879年4月16日に35歳で死去しました。

ベルナールはローマ教皇庁によって1925年に聖人に次ぐ福者の地位に上げられる「列福」となり、1933年12月8日に、ローマ教皇ピウス11世によって聖人の地位に上げられる「列聖」をされました。そして列聖はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂で行われますが、聖歌のテ・デウム(Te Deum)が歌われるサン・ピエトロ大聖堂で行われた列聖式には、駐バチカン・フランス大使のフランソワ・シャルル=ルーによる配慮で、桟敷席に招かれたひとりの老人がいました。この老人は、ピレネー山脈のポー川沿いに住み花作りを営んでいる老人ですが、この老人は赤子のときルルドの泉で骨軟化症が快癒したジュスタン・ブオール少年の77歳の姿でした。